俳優として様々なドラマや映画に出演して活躍している大東駿介さん。
モデルとしてデビューしただけあって、身長182cmとスタイルも抜群でまさにイケメン!
そんな大東駿介さんの生い立ちが壮絶だと話題になっています。
今回は、大東駿介さんの壮絶すぎる生い立ちについてまとめました。
小学3年生のときに大東駿介の両親離婚で父親が失踪
大東駿介さんは、幼少期時代とても活発で、立候補で学級委員をやったり児童会役員をやったりするような、まさに輪の中心にいるような子供でした!
短距離走も得意でスポーツ万能!そこにきてイケメンですから、小学生時代はかなりモテモテだったようで、なんとバレンタインデーにはチョコレートを20個ももらったという武勇伝もお持ちです!
周りの女子の気持ちがよくわかりますw
この頃の大東駿介さんの憧れは仮面ライダーだったようで、このことが役者を目指す原動力となったようです。
そしてそんな輝かしい学生生活を送っていた大東駿介さんですが、小学校3年生のときに突然両親が離婚。
この離婚の事実も、母親が友人に話していたのを耳にしたことで知ったそうです…
普通親ならば、離婚する前に子供に直接伝えるものだと思いますが…
なんでも大東駿介さんのお父さんはタクシードライバーで、普段からなかなか顔を合わせる時間もなく。唯一大東駿介さんの堪能日にだけ父親の運転するタクシーの中で会うことができたそうです。
何だか織姫と彦星のような…
元々あまり交流もなかった父親だったこともあり、父親が自然とフェードアウトしていったことに、気づくのも遅くなってしまったのかもしれませんね。
しかし、小学校3年生ならば、それなりに理解できる年頃ですし、理由があるとしても離婚前に一言伝えてほしいですよね。
知らぬ間に、しかも別れも言えずに父親はいなくなってしまった…
こんなことがまだ10歳前後の子供だった大東駿介さんにとっては、とてもショックな出来事だったのではないでしょうか。
中学1年生のときに大東駿介の母親が失踪
父親がいなくなり、母親と二人で暮らしていた大東駿介さん。
そのまま地元の公立中学校「堺市立旭中学校」へ進学したそうです。
中学生になり思春期ということもあって一気に人見知りになった大東駿介さん。
人見知り仲間としてできた同級生の仲良し5人組でいつも過ごしていたようです。
小学生時代から早かった足を生かして陸上部に所属していたようです!
そんな中学生になった大東駿介さんの母親が突如失踪します。
大東駿介さんの自宅は生活する住居スペースと、母親が営むクリーニング店が併設されており、普段から母親が外出する際にはお店の表のシャッターが半分閉じられた状態というのが日常でした。
とある日、大東駿介さんが中学校から自宅に戻ると、シャッターが半分閉じられた状態で空いており、自宅の階段に少しばかりの現金がおいてありました。
ただの外出だと思った大東駿介さんですが、母親は戻ってこず、3日、4日…と過ぎていき、ついに戻ってくることはありませんでした。
今でこそこういった問題は育児放棄や虐待として社会的にも大問題になりかねませんが、当時はまだそういった認識が甘かったのかもしれませんね。
母親が現金も底をつき、ついには店のレジの中のお金も…
最終的に1円玉を集めて10円の駄菓子を購入して耐え忍んでいたようです。
このときに購入していたのが「どんどん焼き」という駄菓子。
あられと豆が入っていることから栄養価が高いだろうと、中学生ながら考えて購入していたようです。
思春期の育ち盛りの男の子がどんどん焼きで耐えしのぐ生活は、とてもつらかったでしょうね。
そしてそれ以上に大東駿介さんは周りの目も気にしていたようです。
コンビニとかで買うと恥ずかしいから、一つの店で1個。また自転車こいで違うコンビニで1個。かわいそうなやつと思われたくなかった。
ヤフーニュース
1円玉を10枚出して駄菓子を買うという行為時代にも抵抗があったようです。
特に中学生という思春期にこのような境遇の恥ずかしさは人一倍感じてしまうのかもしれません。
何も悪くないのに自分を責めてしまう当時の大東駿介さんの気持ちが、とても切ないですね…
ライフラインも途絶え引きこもりがちに…
食事はもちろんのこと、光熱費や水道料金も支払われなくなったのでしょう。
ついにいえのライフラインも途絶えてしまった大東駿介さんは、家に引きこもり生活を贈ります。
大東駿介さんが小学5年生だったときに母親が拾ってきたウサギと2人で生活していたようで、ウサギのフンだらけの部屋で寝ていたようです。
しかし同時にそのウサギが唯一の友人であり、心の支えとなっていたと語っています。
鏡に映る自分になにか話しかけたり、ウサギに話を聞いてもらったりしながら過ごし、暗くなる夜に怯え、夜が明けて朝が到来、街が動き始める音にも恐怖を感じるように唸っていったと言います。
若干13歳にして、精神的にここまで追い詰められていた大東駿介さん。
とてもつらく悲しい日々だったでしょうね。
中学時代に助けてくれた親友と担任の存在
こんな辛い生活を送っていた大東駿介さんですが、手を差し伸べてくれた仲間がいました。
それが人見知り仲間として仲良くなった仲良し5人組。
なんとその中には現在芸人として活躍している金属バットの小林圭輔さんもいたんだとか!
すごいことですよね!!
徐々に引きこもりで不登校になっていった大東駿介さんの自宅のドアを突然破壊して家に押しかけてきたようです!
それからというもの大東駿介さんの家は5人のたまり場となります。
後にその5人と大東駿介さんは一緒にパロディや劇をビデオで撮影したり、自電車で大阪の天神祭に行き、帰り道にタイヤのパンクで5時間かけて徒歩で帰宅するなんて言う、いわゆる青春を送った大事な仲間となったようです。
友達の存在の大きさって本当にすごいですよね!
ちなみに金属バットの小林圭輔さん曰く、当時の大東駿介さんについてはそこまで窮地に立たされていたとは思っていなかったようで、「あまり親が家にいない家だなぁ」程度の認識だったようです。
何も知らず意識していなかったことが、逆に大東駿介さんの救いになっていた部分は大きいのかもしれませんね!
そしてもうひとり、当時の大東駿介さんを助けてくれたのが、担任の先生だったということです。
中学で給食は出ていましたが、お弁当の日等給食が出ない日には、担任の先生がいない所で大東駿介さんにパンを手渡してくれたようです。
「その時食べたチョコスティックパンとジャムマーガリンのコッペパンが、今でも大好きですね。」
スポニチ
このように語っており、大東駿介さんにとっていい思い出であることが分かります。
両親にはおいていかれ辛い状況だった大東駿介さんですが、友人や周りの環境にはマグマれていたことで救われた部分も大きかったのではないでしょうか。
叔母の家に引き取られて生活を始める
そんな大変な生活を送っていた大東駿介さんですが、ちゃんとし時期は不明ですが、中学生半ばに叔母の家に引き取られ、そこで我が個のように大事に育てられました。
環境の変化は大東駿介さんにとって大変なできごとだったでしょうは、結果としては優しい叔母さんに引き取られたことで、一般的な生活を遅れるようになり、我が個のように育ててもらったおかげで、心も身体も回復したのではないでしょうか。
また高校にも無事進学。大阪府立堺工科高等学校に通います。
この頃の大東駿介さんは、中学時代の人見知りが更にひどくなっており「対人恐怖症レベルの病的な人見知り」という非常に大変な状況だったと言います。
人と目が合うだけで手が汗でびっしょりになってしまうほどだったんだとか。
両親がいなくなり、ひどい環境の中で生活していたという過去の精神的なものが影響していたのかもしれませんね。
「眼鏡をかけてみたら『人ってこんな目で俺のこと見てるんや』と思って。そこからめちゃくちゃ怖くなって」と眼鏡やコンタクトレンズを漬けずに過ごし、手汗もとまらなかったという高校生活
モデルプレス
精神的なものは、すぐに良くなるものではありませんよね。
しかし一方でこのような状態の中でも「役者になりたい」という気持ちを持ち、役者の道を進もうと決めたのもこの頃だったようです。
小学生の頃の仮面ライダーになりたいというあこがれを持ち続け、辛い状況を乗り越えて役者を目指した高校時代の大東駿介さん。自身の強さももちろんですが、やはり周りの友人や大人の支えも大きかったのかなと感じます。
まとめ
いかがでしたか。
大東駿介さんの両親の離婚や失踪、生い立ちについてをまとめました。
小学校3年生で両親の離婚を間接的に知り、その後中学1年生のときには母親が失踪。
お金もなくなりライフラインも途絶えてしまった生活を送り、とても壮絶な幼少期を過ごした大東駿介さん。
そんな大東駿介さんを支えたのが、当時の親友や周りの大人、親戚でした。
今の大東駿介さんがいるのも周囲の支えがあったからこそなのかなと感じます。
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